当時 北海道大学地球環境科学研究科 博士課程 イセンコ エフゲーニー

この滞在記は、雪氷66巻3号(2004)に載っている滞在記の縮小していないバージョンです。日本語訳の元であるロシア語版もあります。

はじめに:カフカスについて

カフカス山岳地帯は、北西から南東まで、黒海とアゾフ海との間に位置するタマン半島からカスピ海のアプシェロン半島まで約1000 kmに連なっている。カフカスの気象、地形、岩石、それから動植物界は、場所によって著しく異なっている。大きく分けてみると、西と中央と東カフカスという三つの地方になる。

西カフカスは、降水量が高く(アチシュホ気象台にて約4000 mm)、その分布が不均一である特性を持つ。地中海と黒海から移動する大量の蒸気を吸収した空気の影響では、南斜面の方で雨と雪がたくさん降り、雪線が北斜面より南斜面の方が低いことである。さらに、カフカスの一番標高の低い氷河も西カフカスにある。例えば、小フィシュト氷河の末端は、黒海の亜熱帯地方の隣接にもかかわらず、標高が1980 mにすぎない。

一方、東カフカスは森林がほとんどない干ばつ地帯である。

エルブルス山
バシュカラ氷河のモレーンからエルブルス山を望む(2000年9月の撮影)

中央カフカスは、標高が高く、氷河が多い。ヨーロッパ第一の高い山である休火山のエルブルス山(5643 m)を含んで、5000 mを超えるピークがいくつかある。エルブルス山に限っても、氷河が200個で、その総面積は100 km2以上である。カフカス全体では、氷河がおよそ2000個ある。その総面積は約1400 km2である。

エルブルス山から東の方へ離れて、カフカス中央尾根の北斜面に位置するジャンクアット氷河は、その地方の代表的であると考えられている。質量収支などの定期観測は、最近の40年に毎年行われている。

ジャンクアット氷河は、モスクワ国立大学地理学部の学生のための訓練所としても使われる。ジャンクアット氷河では、毎年100人以上の学生が自分の研究に関する仕事をしたりする上に、質量収支モニタリングにも主な寄与をする。

調査の始まり:すべきこと

私には、ポポブニン助教授が隊長の氷河調査隊メンバーとして、モスクワ国立大学からの学生7人と一緒にカフカスに行く幸運がめぐってきた。モスクワから中央カフカスの北東山麓に接するナリチクという大きい都市まで急速列車でも40時間はかかる。ロシアには、航空に比べれば、鉄道の運賃の方が安く、距離が長くても利用する人が多い。

ほぼ途中でのベロレチェンスク(直訳:白川)という町にある実家に登山道具を取りに行く目的で、他の隊員と一時的に離れ、終点まで6-7時間のアルマヴィル駅で一回降りた。列車の終点駅、またはアザウ高山氷河基地でまたみんなと合流すると約束した。

列車がアルマヴィル駅に着いたのは深夜だけれど、幸いに車で迎えに来られて、1時半後、1年ぶりに実家に到着。翌晩、用事を大急ぎで済ませて、またアルマヴィル駅へ出発。

アルマヴィルからは、広くて鏡のように平らな平野の東の方に薄暗がりに沈んだ遠いスタブロポリ高地の丘のシルエットが見えていた。ナリチク行き列車まで4時間。荷物預かり所が夜分休業だし、置きっぱなしにしてもいけないので、大きいザックを背負ったまま駅付近を散歩したりした。歩道橋の上で立ちながら、もつれ合った線路の間にばらばらになった多数の操車用信号機の真っ青色の明るい星のような光、その上、真っ黒い星空の星座の輪郭を眺めていた。遠い操車が時おりガチャガチャする音以外なく、しいんと静まり返っていた。「懐かしいな」と思わず日本語で言い出した。

列車が来る予定時間の30分前に、1時間遅延の知らせがあった。1時間後、予想遅延が1時間半になった。結局、2時間遅れた列車に乗って、半分空いた車両で席を取った。夜明けに目がさめるといいなと思いながら寝静まった。

目がさめたとき、もう明るかった。すっくり立ち上がって車窓から向こうを見すえた。「まだ手遅れじゃない。」実は、私はエルブルス付近に行くのは2回目なのである。前回一番印象深かったのは、ナリチクに近づいている時、車窓から見える遠い水平線に雪を頂いたピークの風景である。今回も、地上の霞の上に空気にかかったような白い山々の壁が南から北の方へ連なっているように見えていた。私は窓を少し開いて、写真を撮った。

ナリチク
ナリチク:カバルディニ・バルカル自治共和国の首都

車内には、徴集兵とそのほかの兵士たちがかなりたくさんいた。最近の地方紛争が起こったりしているグルジア国が近いのである。しかし、エルブルス付近は、もっとも安全な地方の一つと考えられている。

カバルディニ・バルカル自治共和国の首都であるナリチクには、多民族カフカス特性の歴史的な過去の雰囲気がする。これは、昔の建築、伝統的な衣服と料理、地方民族の独特の性格で、よく感じられている。けれども、誰もロシア語で話せるので、コミュニケーションの問題は全くない。

駅では、2時間待たされたので苦情を言っている学生のヴォヴァ君に迎えに来てもらった。国境地帯通過許可書、交通機関予約、設備購入などの手続きが大体完了したと彼から知った。これからすべきことは、食料購入と、市場でもう待っているはずのバスにその食料を積み込むことだけである。

カフカスの市場は、中央アジアの伝統的な市場のように、野菜や果物や色々な色の強い匂いがするスパイスがいっぱい。ジャガイモ、たまねぎ、にんじん、麦類、砂糖、麺類、魚と肉の缶詰、紅茶、お菓子などを大袋で買っていたとき、基地までこれを全部背負って登らざるを得ないことが思わずに頭に浮かんだ。

やっと、食料、登山道具、個人荷物で半分積み込まれたバスに乗って、バクサン川上流に位置するアザウ氷河基地へ向かった。あそこには2・3日を過ごす予定であった。トィルニアウズ市の辺、とてつもなく大きな門のような100メートルを超える岩壁の峡谷を貫通する。それは岩石という長い尾根の地形の典型的な様子。2000年の夏に、マンションも何棟かを破壊して、都市の一部を水浸しにさせた大きい土石流が起こったのは、丁度ここである。

雪崩で倒された木々
雪崩で倒された木々

雲上にそびえ立つ、大きい雪庇がかかった真っ白に光っているカフカス主要尾根の斜面がとうとう見えてきた。上の厳しい景色と下のまるで夏のような景色はまったく一致しなかった。

しばらくして、モスクワ地下鉄のように入口の上にM文字が付いたトンネルが川の対岸に見えた。それは、世界で有名なバクサン中性微子研究所の施設である。4キロのトンネルの向こうは、連続的冷房にもかかわらず、35度以下にならないほど地熱の影響が高い。

アザウよりちょっと下流では、倒れた木の広い所があった。道路の両側は、雪崩で不自然に曲がったりひねったりされた幹が斜面の上へ向いていた。去った冬は雪が多そうだった。

アザウ

アザウとは、観光施設、ロープウェーとモスクワ国立大学所属氷河基地しかない、エルブルス山麓に位置する小さい集落である。

アザウ氷河基地1
アザウ氷河基地の小屋
アザウ氷河基地2
上から望むアザウ集落

アザウに滞在する内にしなければならないことがいくつかあった。すなわち、5ヶ月間に使うガスの購入、国境地帯通過許可書の手続きの完了、トラックの予約、と高度順化。その高度順化として、ガラバシ駅(標高3800 m)までロープウェーで往復することにした。スキーを持っている人はスキーで下りた。

そして、工場で出来損ないに作られたスノーゾンデの修理には、さらに半日がかかった。幸いに、基地に良い金物工作場があったので、自力で直すことができた。

毎年、ジャンクアット氷河調査時期は、「融解が始まるまでに間に合わないと…」というスローガンで始まる。融解過程が始まるまでの積雪水当量の最大値を測定することは、質量収支に対してとても大切である。私たちは、高度順化の時に、ジャンクアット氷河付近を上から霞を透視して見つめた。その付近のアウトウォッシュプレーンはまだ全部雪で覆われていたのである。今年の春が遅くて運がいい。さらに、今年の冬季に雪が非常にたくさん降った。通常よりかなり大きい雪崩の跡も、原始林が倒れてしまった斜面も、広い面積に雪で覆われたバクサン川も、その仕業である。アザウ付近で設置したばかりのガス管も部分的に破壊された。幸いに今回は犠牲者と大した損害がなかった。

巨大な雪崩1
2002年の冬には異常に巨大な雪崩が起きた
巨大な雪崩2
巨大な雪崩が起きた場所
雪崩で覆われたバクサン川
雪崩で覆われたバクサン川

突然の雪解けで、できるだけ早く測定を始めなければならなかったのに、ガス購入の問題でさらに二日間停滞させられた。やっと手続きが決着になった31日午後1時ごろ、1トンぐらいの荷物を、約束より4時間遅刻したトラックに積み込んで、その後おいしい伝統的な料理屋さんで豪勢な食事をして、ジャンテゥガン観光基地へと向かった。

エルブルス山でのスキー
高度順化のスキー(エルブルス山の斜面)
エルブルス集落にて
氷河へ出発する前の集合写真(エルブルス集落)

 

屋根のないトラックに乗って嬉しくて仕方なかった。両側は、綺麗な松の木々、向こうは、山の雪面に映った光り輝く太陽。「そろそろ雪と氷の世界に入る」という狂喜が全員の目つきに現れそうだった。それは、過言かもしれない。一人も残らず、その素晴らしい景色を眺めるためサングラスをかけていたのである。突然、右の斜面は氷壁になった。それは、道を埋めて、それからブルドーザーで掘りぬかれた大きな雪崩の断面であることが分かった。

森林帯から出て、斜面の険しい牧場が広がった。もうちょっとしばらくして、ジャンテゥガン基地に到着。ここからジャンクアット氷河基地まで歩いて2時間ぐらいかかる。一気に運搬できない荷物の大部分を観光基地で預けてもらい、必要なものと自分の荷物だけを背負って登り始めた。

やや緩やかな林道を歩いて、それから険しい草つき斜面をトラバースした。途中で、国境警備2ヶ所を通りかかった。女の学生は、これをきっかけに、兵士たちから自動小銃を借りて、周りのピークにかかった氷河を背景にした写真を撮ったり嬉しそうにはしゃいだりしていた。

ジャンクアット氷河への登山道
ジャンクアット氷河へ行く途中の難所:棚状の道
ジャンクアット川のスノーブリッジ
ジャンクアット川をスノーブリッジで渡る

第二国境警備の後で、重いザックで歩きづらい棚状の川沿い道があった。しばらく登ってから、その川を大きいスノーブリッジで渡って、広い谷になる。その谷の向こうの斜面を登ったら、氷河基地まで雪で覆われたアウトウォッシュプレーンを30分歩く。もっと簡単だが、もっと長い、ジャンクアットとバシュカラ氷河両方への見晴らしのいいモレーン尾根道もある。でも、その道を使うと、崩れそうなスノーブリッジを渡らなければならない。

これからほとんど毎日、2-4人のグループが前述の道の一つを選んで荷物を取りに行き来することになった。国境警備隊員、それからここで訓練しに来た連邦安全局員たちも手伝ってくれたので、一週間で荷物を運ぶことができた。ただ、50キロのガス筒の数本、いつになるか分からなが、ジャンテゥガン観光基地に残された。

ジャンクアット氷河基地

モスクワ国立大学所属ジャンクアット氷河基地の小屋二棟は、氷河の末端から1キロぐらい離れて、広い川原に位置している。ジャンクアット川、周りのモレーン丘、アウトウォッシュプレーン、どこでも深さ1メートルの雪原が広がっていた。ここは、雪がなくなるのは6月中旬だという。小屋は、小さい丘の上に建てられており、雪が比較的に少ない場所である。

春のジャンクアット氷河
春のジャンクアット氷河
秋のジャンクアット氷河
ジャンクアット氷河と氷河基地の小屋(左)。右は避難小屋が見える。(2000年9月の撮影)

基地に着いてからまもなく、3人のグループはスノーゾンデを持って、氷河末端付近の積雪深を測定しに出かけた。他の人は、小屋を住まいに適するように、その付近の消雪、隣の凹みにある雪で埋もれたトイレの掘り出し、窓とドアの修理、寝る場所と台所の用意などの色々掃除をしたりした。飲み水は、このころは、近くに流れる川から汲むよりほかはなかったが、夏季は、東へ300メートルにある高い岩壁から落ちる滝の水を使える。その滝の方が、水が綺麗で美味しいという。

炊事、食器洗い、給水、その他の様々な仕事は、一人か二人の当直の役目である。自分の希望に従って作成された当直時刻表により、隊長も含んで誰もの順番が決まっている。2-3時間に一回、小屋のそばにある気温記録機の紙テープに時刻と気温をマークすることも、当直の仕事である。

隊員は、形式的に基地の暮らしに関する特別な決まりを守らなければならない。たとえば、決まった領域から出る場合、必ず名簿に書き込むこと、基地に夕方7時まで戻ることなどである。

国境警備兵は、事故がないか、越境者を見ていないか、と聞きに来る。そのついでに、荷物を少しずつ持ってきて、お茶でも飲みに、ほとんど毎朝遊びに来る。もちろん、越境者はいない。峠のグルジア側は、上級登山者しか行けないアイスフォールである。

時々、連邦安全局員たちも基地に来る。しかし、彼らは、基地より上流へ行かない国境警備兵と違って、難しい登山もしに来る。訓練として。銃を持ちながら。私たちは、「なぜ銃を持って山登りをするの」と当たり前な質問を出した。「なぜショベルを持って氷河に登るの」と質問をかえされた。みんなそれぞれの固有の仕事をする。

積雪測定

6月3日の始まりは、近くに落ちてきた雪崩を勢ぞろいで見に駆けつけたのである。雪崩は、下の緩やかになる所で、濡れ雪の塊を形成し、しわになりながら、ゆっくりと動いていた。他の遠い斜面にも、雪が剥がれた跡が多数あり、時折、轟音と雪崩の音がする。それ以上、今日こそ全員で積雪測定に行くことになったから、面白い日になりそうである。

基地から氷河末端まで30分かかる。谷の両側は、侵食溝だらけで険しい砂利付き斜面のモレーン尾根が100 メートルの高さを超える。ここは崩れてばかりいる。小石が落ちると、ポンポンとわずかに聞こえる音がする。大石が落ちたら、そのせいで砂と砂利がボクボクとしばらく動き続ける。普段、崩れは何気なく起こるのだが、止むことなく同じ点から石が落ちることもある。こんなときによく見つめてみると、カモシカのせいだと分かる。カモシカは、どうやって落ちないか分からないほどうまく石から石へと躍進的に跳びながら移動する。それは夏のことである。今は雪が多くてカモシカがまだやってきていない。

今日、氷河末端付近での測定をする予定である(基地との標高差は約300-400 m)。氷河を登っていたとき、濃いガスがかかったり、遠くから雪崩の音がしたりして、神秘的な気持ちにさせられた。私たちは、2-3人のグループに分けて、等高線に沿いながら、氷河の縁から縁へと進む。毎50 mまたは毎100 m、スノーゾンデで雪を刺して深度を測定する。スノーゾンデとは、ネジで相互接続できる長さ2 mの鉄ポールのセットである。積雪深測定をするときは、フィルン面と雪内の氷層と間違わないことが大切である。雪内の氷層は、かろうじて貫くことができるが、フィルンは、どうしても刺すことができないのである。

ウヤタウ山の麓で測定していたとき、大きい雪崩がほとんど山頂から落ちた。間近で測定していた人は言うまでもなく、300 mぐらい下流にいた私も、大量の雪が迫ってくる様子で気が気でなかった。幸いに、雪崩の速度が遅かったし、人がいる所まではたどり着かなかったので、無事であった。変なことに、これから全員とも雪崩が間近に起こっても、気にしないことが多くて、平気になったのである。

氷河全域で測定しなければならないので、到達困難な場所でも測定せざるを得ない。こんな仕事を、早く逃げられるように、スキーの自身のある人に任せる。もう一人か二人は、万一、雪崩などが起こったら合図をするように、少し離れたところに歩哨に立つ決まりがある。

ほとんど毎日少人数で数十箇所の測定を行ったが、氷河の下流半分の約350点で積雪深を測定するために、2日間かかった。等高線をできるだけ正確にしたがって移動していたので、私たちの足跡は縦の線と横の線のパターンになって、遠くからとても不思議で綺麗に見えた。

ジャンクアット氷河での積雪測定1
ジャンクアット氷河末端付近での積雪測定
ジャンクアット氷河での積雪測定2
きれいな景色を見ながら積雪測定をしていた
ジャンクアット氷河での積雪測定3
測定中にも雪崩がよく起きていた
ジャンクアット氷河での積雪測定4
雪崩れる斜面でも積雪を測定しなければならない

 

水文学的観察

私は、機会があれば、自分の研究テーマに関する氷河上の水流を観察する予定もあった。でも、ジャンクアット氷河はまだ雪が多くて、それについては議論の余地がなかった。

しかし、基地の西側にある高いモレーンの向こうには、バシュカラというもう一つの氷河がある。その上流は、標高4000 m以上の山で囲まれており、雪崩、氷の崩れが起こってばかりいるところである。中流には、氷河とモレーンの間に比較的に大きな同名の氷河湖がある。その湖は、ほとんど100年前から知られている。それが決壊する恐れについて言う人がいるが、モレーンダムが弱くなさそうなので、その危険性は低く思われる。調査が始まったばかりの頃、湖のほとんど全面が氷で覆われていたが、私が帰る前の6月9日ごろには、小さい氷山しか残っていなかった。氷河末端では、もう三つの小さい湖が氷河に接する。その無名の湖はわずか数年前にできたのだそうである。バシュカラ湖よりずっと小さいのに、そのモレーンダムが崩壊しやすいので、決壊の恐れで危ないと考えられている。

バシュカラ湖1
バシュカラ湖とジャンクアット氷河(遠景の左側)
バシュカラ湖2
バシュカラ湖。背景にはバシュカラ氷河の上流部を囲む高い山々が見える
バシュカラ湖3
バシュカラ湖の近くに
バシュカラ氷河末端付近の無名湖
バシュカラ氷河末端付近の無名湖

バシュカラ氷河の長さはジャンクアット氷河と同じぐらいだが、その末端の標高がずっと低い。そこではもう水流ができていないかを確かめに行くことにした。バシュカラ氷河の末端までは、簡単で短い行き方がない。バシュカラ湖の側の険しいガレをトラバースするか、遠回りの道を行くか、という二つの方法がある。次からも、私は、気分によってどちらかの道を選んで、ほぼ毎日観察に行くことになった。

バシュカラ氷河末端には、所々に残雪があったけれども、嬉しいことに、氷河上に水の流れが2-3箇所できた。最大の水流は、長さがおよそ100 m、流量が約20 l/sであった。雪が解けてしまってから一週間も経たないにもかかわらず、水路はもう50 cmほど深くなっていた。水路は、たぶん氷河表面が現れる前に形成しただろうと思う。

しかし、一番面白かったのは、その水路の上流である。水は、小さい(約5 m3)水溜りから流出し、比較的深い(約1 m)蛇行するチャンネルを流れていた。その氷壁の垂直なプロフィールは、数センチから13 cmまでの大きさのステップ状であった。このような形は(ribsとも呼ばれる)、流量、または水温の周期変動によってできる。但し、変動の振幅が極めて大きくて、あるいは、周期が少なくとも数日間にならないと、ribsは形成できない。

バシュカラ氷河末端の表面の水流
バシュカラ氷河末端の表面の水流
蛇行する氷河上の水流
蛇行する氷河上の水流

私の観察によると、新しいステップは毎日できていた。したがって、水温の激しい変動のせいだろうと思った。事実、水溜りがモレーンの上にあって、その水が氷と接していないので、昼間のうちに、氷河水温の普段の値よりずっと高くて、0.6°Cまで暖められたのである。

スノーピット

氷河質量収支モニタリングができるように、積雪深測定だけでは不十分である。少なくとも数ヵ所の雪密度プロフィールを知らなければならない。普段、そのためにジャンクアット氷河ではスノーピットを下流、中流と上流、3箇所で掘る。融解するにつれて、それから新しい学生のグループが来るにつれて、スノーピットの壁を修復して、再び密度測定を行う。

ジャンクアット氷河のクレバス
クレバスが非常に多いジャンクアット氷河の中流部(2000年9月の撮影)

一番下流の深さ4 mのスノーピットは、女の学生二人を含んで三人で一日で掘ることができた。私は参加できなかったが、その次の中流スノーピットを掘るのに、全員で出発した。晩夏などの暖かい季節は、標高差が700 mで一時間半はかかる中流までの道は、クレバスが非常に多くてとても行きにくい。でも、今の豪雪の初夏は、比較的安全に行くことができる。

雪の高地が広がっている場所で中流スノーピットを掘り始める前には、そのピットの境を画いた。それは、 2x5 mの四角形に小さい1x2 mの四角形を支流のように付けた形を持っていた。最初には、私はその大きさを見て驚いた。しかし最終的には、下方へ段々狭くなっているステップ状になったスノーピットの真下のレベルは、わずか半平方メートルにすぎない。2 mの深さに達して氷層を掘り貫いてから、雪が硬くなって、掘りのテンポが大分遅くなった。その氷層は、上部の零度の雪と下部の寒冷雪との界面であることが、雪の温度を測ってみて分かった。その6 mのピットを三日間で掘った。予定よりちょっとかかったので、私は帰る日を延期することにもなった。

ジャンクアット氷河のスノーピット1
氷河の中流部でスノーピットを掘り始めているところ
ジャンクアット氷河のスノーピット2
スノーピットを掘る様子:二日目
ジャンクアット氷河のスノーピット3
スノーピットを掘るには三日間かかった

 

終わりに

私が帰る日の前夜はてんてこ舞いであった。スノーピットの無事終了、私の出発、それから誰かの誕生日も同時に大騒ぎで祝った。私は支度をし終わって、1時間ぐらいうとうとして、日の出の薄暗い光のもとで、下へと出発した。前日の疲れとそれからの祝いでみんながぐっすり眠っていた朝4時、さようならでも言ってくれる人が誰もいなかった。

途中で、バシュカラ氷河の水流を最後に見に行くことにした。重いザックでガレをよじ登るのは、簡単ではないことが分かった。至る所が汚れてしまい、数百キログラム分の石を崩しながら、バシュカラ氷河に到着することに成功した。

必要な測定を終え、登山道へ向かった。まだ近づかない内に、最寄りの国境警備の方に普段より多い人数の動きを見つけた。「なんでびっくりさせるのかよ」と警備隊長が出迎えとして質問を出した。「越境者ではないかと」。こんなに朝早く氷河にいる氷河学者が珍しいかもしれない。

ジャンテゥガン観光基地を通りかかって、鉱泉への横道に足を向けた。カフカスは、全ロシアでよく知られている「ボルジョミ」、「ナルザン」、「ゴリャチ・クリュチ」などのミネラルウオーターでも有名である。そのミネラルウオーターは、治療力のあるものとしても、普通の飲み物としても、よく飲まれている。

ジャンテゥガン泉は川の側にある。赤みで覆われた石の下から流出する水は、弱い匂いと強い味がする。その上、炭酸ガスもいっぱい入っている。まことの自然炭酸水である。ペットボトルに水を入れて、バスに遅れないように下へ急いでいった。

道は二週間前と逆になって、まず景色のいい谷川沿い、それからアルマヴィル市まで6時間のバス、最後に3時間の電車・・・。時間は不思議にいつの間にか早く経った。感動と寝不足でくたびれた私は、眠ってばかりいたからである。夢に見たのは、スノーピット。

ジャンクアット氷河付近は、比較的大きくない山岳地方のわずか一部にすぎない。世界には面白くて美しいところは、なんとたくさんあるだろう。全生涯をかけても訪れきれないかもしれない。

謝辞

原稿のチェックと貴重な助言をしていただいた低温研の成瀬廉二先生(日本語版)とモスクワ国立大学地理学部のポポブニン先生(ロシア語版)、文章表現に関して色々手伝っていただいた低温研氷河氷床グループの金森晶作さんと寒冷生物圏の飯村佳代さん、他の関係者の皆々様に深く感謝致します。

イセンコ エフゲーニー
2004年